裏町ものがたり

松本・昭和の昔語り

第6章:ふたたび三絃稲荷のこと


子ども時代の追憶から少し離れて、下横田裏町のことを少し書く。

つい先頃所用で下横田界隈を歩いてみて、そのあまりの変貌に驚き、むしろ唖然としたものである。

むかしの下横田町の西側は城東、東側は恵光院一帯は女鳥羽で、あとは城東の区域になっているという。それはいいのだが、東西両側とも一見ビル様の建物が並び、いわばスナックやクラブが立体的に重なっている感じだった。

横町へ入ると、居酒屋風の飲み屋がまだあるようだが、昭和末期の裏町の風情はもうない。かつては、道の両側にはお座敷のある小料理屋が点在し、その間に商家やしもたやが少しはあった。いくつかの横町を入ると、カウンターやテーブルを置いた居酒屋が並ぶと言うパタンがうら町飲み屋街の風情だったと思う。今は、表通りは雑居ビルが立ち並んでいるばかり。

恵光院も立派な掘を巡らして門を閉ざし、子どもの遊び場にもならない。恵光院の南の家々は、戦前はほとんどが置屋で、丸窓の粋な造りが目立つ家が多かった。大通りの東側、今はない「福崎」という小料理屋の南あたりに、芸妓組合の稽古場があり、若い芸子さんたちが熱心に温習おんしゅうを積んでいるのを、子どもたちが連子れんじ窓の隙間にとりついて覗いていた。もっとも、それは昭和十二、三年頃までのこと、戦争が激しくなるにつれて、芸妓さんたちも何やかやと動員に駆り出されたようだ。

裏町通りの西側、今は駐車場になっている所に、昔「料芸組合」があって、戦後そのあとに「松本音楽院」が鈴木鎮一氏によって設立されたそうだ。昭和21年ごろである。既に19年、松本医学専門学校が裏町の寺(多分正行寺か恵光院)を教室に開校され、裏町の置屋も徴発されて学生の宿舎になった。丸窓付きの部屋や脂粉の香の残る畳の上で、当時の医学生は軍医になるために必死に勉強したのであろうか。もっとも、それがあったために、やがて信州医大、そして信大医学部が誕生したのである。

置屋街の裏手、俗に鯛万たいまん小路と言われていたところに、清冽な湧井がある。源池げんちの井戸に匹敵するものだが、今は立派な屋根を掛けられて、公園になっている。私も壮年の折、この井戸の周辺の店、「阿以あい」や「多麿」、「とき」などを訪れたものだが、阿以はもうない。

実は、「三絃稲荷」は、この鯛万小路の南あたりにあったという説があるのだ。ただ、もしかしたら、前述の料芸組合があったあたりに鎮座ましましていたかもしれない。いずれにせよ、幼年時代の憧れの場所の一つであった「三絃稲荷」は、もうこの世にはないのである。

ことの序ついでに、稲荷と芸妓の繋り、またなぜ稲荷の祭に子どもに大盤振舞をするのかなど、子供の頃の不思議に思ったことを、少し調べてみた。余談ながら、書き添えておこう。

もともと稲荷神社は、さまざまの語源説があるにしても、五穀を司る農業神だった。渡来人豪族の秦氏の氏神であり、平安遷都後に真言密教と習合して伏見の稲荷山にまつられたというのが各種の辞典に記述されている事実であろう。このとき神体を茶枳尼だきに天としたため、通力自在で諸願成就に効験ありと信じられるようになる。わが国では狐信仰と合体して稲荷のつかわしめとして狐、ことに白狐が古絵図に描かれている。伏見稲荷に仕えるのは狐のみだが、豊川稲荷では狐狗狸こっくりなどという怪しげなものまで使いになる。

小さな祠まで数えれば全国八万というこのお稲荷さまは、町中まちなかに祭られるにつれて商売繁昌の願いを手軽に適えてくれる庶民の神となったのだ。聞く所によると京都祇園の茶屋街にあるお稲荷さまは、祭神に天鈿女命あまのうずめのみことを加えて、芸能神の性格まで持たせられたという。

またこれも古い伝聞だけれど、江戸初期に天阿てんな上人なる人物が愛染寺を建立し、稲荷本願所を設けてここに茶枳尼天弁財天聖天しょうてんの三尊を祭ったという記録があるそうだ。夫婦和合や愛欲の神、聖天はともかく、稲荷の祭神に弁財天が加わったことは、明らかに音曲おんぎょく上達の功徳が望まれたわけ。裏町の三絃稲荷が芸妓の信仰を集め、芸妓組合が世話人となって初午行事を催したこともうなずけるのではないか。

裏町には、林昌寺のすぐ南側に、かなり立派な稲荷神社があり、赤い鳥居が今でも見事に連なって、奥深いところに社殿がある。私は、林昌寺先代の川上法隆さんが創った光明幼稚園に通った。数えで七つの頃だ。お稲荷さんの横に小路があって、そこを通って園に行く。不思議なことに、こちらの稲荷の初午行事の記憶は全くないのだ。松本市内にも、あちこちに稲荷の社はあるが、どういう講中が維持しているのだろう。

三絃稲荷は、今は所在もはっきりしない。裏町から芸妓が消えた現在、しかたがないことかもしれない。初午に子どもたちを集め、当時としては豪華だった折詰を配ったのはなぜだろう。

十七世紀末、異色の風俗画家としてもてはやされた英一蝶はなぶさいっちょう描くところの『風俗絵巻』に、初午詣での絵がある。絵馬を持つ神主を囲み、「稲荷大明神」と大書した幟のぼりを担ぐ子どもたちが騒いでいる。初午は子どもの祭りでもあったのだ。

さらに、学齢に達した子は、この日寺子屋に入る習慣があった。そのような慣わしが、もし置屋連にあるとしたら?何しろ、全盛期の大正時代、置屋六〇軒、芸者三〇〇人という。明治末期の三倍である。当然半玉と称する芸妓の卵も、数十人はいるはず、彼女らの「学齢」はいくつなのか。芸事の稽古に入る前、初午の日三絃稲荷に将来の商売繁昌を祈らせ、祝う。これは私の想像であるが、そんなとき、彼女らの遊び仲間だった近隣の子どもらを招待したのだろう。


第6章👉「梅ちゃんのこと」