裏町ものがたり

松本・昭和の昔語り

第2章:三角ベース


猿は狙って石を投げることができるか。訓練を重ねれば別として、物に相対して狙って投げるのは、人類が太古に覚えたヒトのみの技術だと思っている。初めは棒で、やがて石投げで獲物を倒す。

平安末期の「印地打いんじうち」は、石投げの巧みを買われて法住寺合戦(木曽義仲が後白河法皇の御所法住寺を攻めたいくさ)の折、法皇の誘いを受けたあぶれ者集団だという。そうでなくても、少し歴史に明るい人なら、源為朝の老僕に「八丁礫喜平次はっちょうつぶてのきへいじ」なる者がいて、800メートル先の敵を投石で倒すという嘘のようなホントのような話もある。八丁は話半分で、白髪三千丈の類だろうけれども。

とにかく、ヒトは投げることが得意だ。平安期に始まり、江戸、明治のころまで続いた年中行事の石合戦。何らかのルールはあるにしても、子どもの遊びとしては危ない。他町内との喧嘩で、女鳥羽の河原で小石を投げあった記憶はある。

また話が逸れた。昭和初期の三角ベースは糸毬1個あればできる。ただし、少なくとも小さなお宮やお寺の境内程度の広さの空き地が必要で、なるべく立木などがない方がよい。学校の近所の町では、グランドが使えた。裏町には上下横田ともに空地は少ない。幸い、東町から清水山辺方面へ抜ける幹線と交叉する四つ辻の北東の角に、前に述べた郵便局があり、その北がかなり大きな空地になっていた。空地の北は、中田紙屋の大きな二階建の壁だ。隅っこに材木が置いてあったから、斜め前の南三ツ木さんの地所だったのかもしれない。下横田の子は、恵光院でやっていたらしい。

投手は下手投、あとはキャッチャー、一塁二塁とホームベース。塁の間隔は6、7メートルかな。バッターは必ずてのひらで打つ。拳固げんこで打つ地方もあったかも。私たちは掌ではたいた。あとは今の野球のルールと同じ。ただ、掌にうまく当たればよいが、腕のどこかに当たっても毬は転がるから、内野が拾ってアウトになることが多かった。どこにも当たらなければ空振。デッドボールなんて、もちろんなかった。アウトになった子は順番に決めた次の子にバッターを譲り、その子の定位置につく。だから最低6人は必要。ホームを踏めば自分の点になる。審判はいなかったと思うが、他町との試合には少し年上のお兄さんを頼んだ。正規には外野2人を入れて8人だが、チビが多かったから2、3人増えても文句は言わない。大らかなものだった。

困ったことが一つあった。高いファウルが出ると、空地の両側の家の壁に当たる。中田紙屋の壁はひさしのない漆喰しっくい壁だったから、跳ね返ってくるだけだったが、郵便局をやっている区長の滝川さんの一階は庇が出ていて、二階の窓は雨戸が閉まっていた。そこへ毬が当たると大きな音がする。転がって庇に取り付けた雨樋あまどいに毬が引っかかって落ちてこない、これには閉口した。というのは、区長で局長の滝川のおじさんは、ガキどもが密かにブルドックとあだ名をつけていた恐そうな人だったから。一々球を取りに行くのは厭なので、仕方なく皆の持ち合わせの糸毬を使う。ところが、その日はなぜかファウルが多く、とうゝ球切れになった。そこで恐る恐る局のガラス戸を開けて、皆で頭を下げて球を取らせてくれと頼んだ。滝川さんがジロリと睨む。皆首をすくめて、小さい子はもう半泣き。野太い声で「おい、あれを持って来てやれ」と一言あって、奥さんが部屋の中から、何とざるに入れた糸毬を15、6個そしてヌガーを二袋ふたふくろ、そっと入れて「さ、持っておいで。笊は返してね」と渡してくれた。ガキどもは一斉に大声で「ありがとうございました」 滝川さんはまた一睨みしてニヤリ、「もっと巧くなれよ」。

滝川さんて見かけは恐いが本当はいいおじさんだったんだと、ヌガーをしゃぶりながら、私たちは語りあったのだった。奥さんは東京からお嫁に来た人だったようで、きれいな、優しい顔立ちだったと思う。確か、子供がいなかったかなあ。

小学校の4年生ごろ、路でよく滝川さんに出逢ったが、お辞儀をすると「よう、少しは野球巧くなったか」と相変わらず恐い顔でいってくれた。その後東京へ行かれたようだが、懐かしい人たちの一人である。


 第3章👉「足がっこ」