裏町ものがたり

松本・昭和の昔語り

第5章:三絃稲荷の折詰


裏町の子どもが楽しみにしている一年間の行事は、現代よりずっと多彩なものがあった。正月の「三九郎(他地方のどんど焼き)」やお盆の「青山様みこし」と「ぼんぼん行列」は、PTAなどの協力で今も残っているけれど、四月の「花まつり(潅仏会かんぶつえ)」や五月の岡の宮祭での「引き舞台」はもうなくなった。潅仏会は昔はどの寺にもあった催しで、特に子どもにとっては、釈迦しゃか誕生仏(木で作られた花御堂みどうの屋根を季節の草花で葺き、小さな像を潅仏盆の中央に置いてある)に甘茶を掛け、盆からこぼれた甘茶を家から持参した空瓶に入れてくる楽しみがあった。裏町には五つの寺があったが、私は一番近い恵光院に行ったと思う。当時の上横田町よりだった。時には花を形取かたどった落雁らくがん(菓子の一種)を貰ったこともあった。

岡の宮祭の「引き舞台」は、上横田下横田別々にあったのか、一緒に引いたのか、記憶はない。確か林昌寺の下あたりに舞台の格納庫があり、トタン張りの大きな扉を眺めて学校に通ったような気がするけれど。これは、要するに二階建ての山車だしである。笛太鼓の若い衆とチビたちは下に、大きな子は二階に乗って囃はやす。大人たちが引綱についてお宮まで行くので、実やの周辺には何台もの舞台が集まる。この慣わしは、天神祭では今でもやっているようで、中町で昔風の引舞台を見たことがある。ソーレ、ピーヒャラ、ソーレ、ドンドンと、笛と太鼓に合わせる小どもたちの掛声で、引綱の大人は南へ下り、現在の葭よし町交叉点を左折、今はない水天宮すいてんぐう(女鳥羽信号交叉点の西北の角にあった)を回りこんで一路岡の宮神社へ北進したのだ。いつもは家々の軒を見上げながら学校への道を急ぐ一年坊主の私は、舞台の高みからトタン葺の平家の裏に小さな池が輝くのを認めたり、瓦葺の二階家の思いがけぬ所に燕つばめの巣を見つけたりして未知の裏まちを発見した気になり、キャラメルを嘗めながら「ソーレ」と大きな口を開いていた。

お盆ごろの縄手の夜店、一月十一日の飴市は、神道しんと祭と共に忘れがたい幼時の思い出だが、それよりも何よりもはっきり記憶に焼き付いている祭がある。旧暦二月のはじめのうまの日、即ち初午はつうまに行われる下横田町の「三絃稲荷さんげんいなり」のお祭りがそれだ。

三絃をどうよむのか、かりに「さんげん」とルビを振ったが、「しゃみせん」と称するほうが正しいのかもしれぬ。何しろ、今は影も形もなくなったお社やしろの稲荷であり、そしてまた、三絃稲荷そのものが松本芸妓発祥の地であるここ「うらまち」の芸妓繁昌の守り神であったからだ。

明治35年発行の『松本繁昌記』掲載の市街図には、片端、東町と並行して「ウラマチ」とはっきり書かれ、岡の宮から安楽寺以下の五寺の位置が示されているものの、「三絃稲荷」の所在は無視されている。横田の遊廓の位置は大きく描かれているから、「うらまち芸妓」は、文字通り芸のみを売る厳しい芸妓集団であった。『繁昌記』にはこう書かれている。

「町芸妓の公認せられしは明治十二、三年の頃にして、初めて重にウラ町にありしが其後緑町に起り上土に至り(中略)天神附近に起りて所謂新吉原を開く。本玉ほんぎょく100人半玉30人(中略)又客の吝嗇けちにして祝儀をよくすることなく夜飲転ばさずんば帰さざらんとするに至りては、その面皮を張る(原文のまま)」

裏町芸妓の意地と張りを偲ぶおもいがするではないか。こんな話を書くと、主題の裏まちの子どもの暮らしと離れてしまうようだが、実は彼女らが信仰する「三絃稲荷」の初午が、子どもたちには待ちに待った日であったのだ。理由は、その日に集まる子らに配る折詰にあった。

普段はあまり食べられない切りいか田作たづくりごまめの甘い煎いりつけ、小さく丸めて美味な餡を中に包んで揚げた小さな饅頭まんじゅう、そして程よく味付した稲荷ずし。お負けに赤飯までつくのだ。恐らく、料亭の板前が調理した食材だと思う。家へ持ち帰って祖母や母と食べた。渡してくれるのは着飾った奇麗なお姐さん。たまたま遅く行った近所の子の分がなくて、べそをかいていたのを慰めてお菓子を包んで渡していた。よその町の子が二、三人、裏まちの子のような顔して並んだからだ。そのときは学校で仕返しをされるのが嫌で知らんぷりをしていた。気が咎めたが、三年くらいになってからか、結局その子たちの親玉と昼の休み時間に砂場で対決する羽目になった。右手の親指の根っこに噛みつかれたが、我慢して首をぎゅうぎゅう締めた。始業のベルが鳴って引き分けみたいな格好になったれど、暫くの間鉛筆がうまく持てなくて困ったことは覚えている。いろいろあったが、あの折詰の味は忘れられない。


第6章👉「たたび三絃稲荷のこと」