桜前線が北上しはじめると、巷の野球ファンの血が騒ぐ。センバツを皮切りに、セパ両リーグの開幕記事に加えて、大リーグ日本人選手のことしの活躍を占う予測が溢れる。
ことに昨年は、イチローの大リーグ史上最多の二六二安打達成や、日本プロ野球初のストなど、ファンならずとも私らの関心を引きつけるニュースが多かった。
そして今、テレビ画面から唸り押し寄せる甲子園大観衆の選抜高校声援の波に、私のこころは圧倒される。圧倒されながら昭和のはじめの裏まちの、小さな空き地へと心は飛ぶのである。
暗くなるまで三角ベースや棒野球に熱中したあの幼馴染の顔々が浮かんでは消え、ぼんやり霞んでしまうのだ。
もうぼろぼろで、半ば壊れ掛かっている七十七歳の側頭葉がそれなりに働き、やっとつかんだ幼な顔……。共同井戸の三軒北のタバコ屋の辰ちゃん、四つ辻にあった郵便局の向かいかどの八百屋のケンちゃん、よく鉋屑をくれた南三ッ木のお兄ちゃん、そしていつもかわいい洋服でめかしていたお寺の坊や。そのあいだに背が高く、利かん気の鍛冶屋のミヨちゃん、色白で少し病気がちの中田紙屋の敏子ちゃん、小さくて可愛い飾り屋のミッちゃんなどなど、おかっぱ頭の、なぜ か皆着物の姿で記憶の底にちらつく。
図:現在の裏町とその周辺(新まつもと物語「復活させたい江戸時代の旧町名」より )
長野市西町生まれの私が、養子に入った父の勤め先の松本へ移り、たまたま空いていた父の実家上島家のある北上横田に住むようになったのは、昭和五年の春だという。数えのみっつから十一歳までの幼少年期のあらかた、松本城の町屋のはずれを北から南へ抜けるこの町に住み暮らしたのである。
古地図によると、城の東外堀の両側に下士の家が並ぶ。現在の旧片端町だ。そのすぐ東の通りが旧東町、ここから「町屋」になる。東町に並ぶ南北通りが上横田下横田、多分東町のような土蔵のある大きな商家は少なく、ほとんどが職人や小店、そして長屋などから構成されていたのではないか。あとで触れるが、下横田には芸妓の置屋が数件あり、踊りの稽古場が通りに面していた。食べ物屋、建具屋、煙草屋八百屋も並びにあった。上と下の境はどの辺だったか、恐らく現今の葭(よし)町信号のあたりではなかったか。
断っておくが、この上下横田は、現在の行政区の横田ではない。旧幕時代には上横田下横田とも寺町通りで、北は安楽寺から長称寺、林昌寺そして恵光院と正行寺が並び、女鳥羽川の直ぐ西の重要な防御線だった。もっとも、それは戦国の世のこと、寺々の間に、さして大きくはない町屋が点在し、閑静な今の裏町通りになっていったのだろう。下横田は、軒並み飲み屋街に変貌して、庶民の憩いの場となった。
けれど、小さい小さい頃の私の記憶を拾うと、裏町には庶民の、いや町人の精気が満ち満ちていた気がする。少ない空地や小路に、子どもだけが知っている抜け道に、疳高い歓声がこだましていた。鉋が板を削る音はしゅるしゅると快く、豆腐屋の源おじさんの太い腕が回す大きな石臼のごろごろで朝を知る。ふいごがごうごう唸ればとんかあんとミヨちゃんのお父さんの気魄が伝わって来る。
百瀬飾り屋のおじさんの魔法のたがねが牡丹を咲かせる手際を、息を詰めて覗く女の子たちの輝く顔。父ちゃん偉いんだョと得意そうに笑うミッちゃん。
そんな思い出を手繰っていたら、忘れかけていた昔遊びのいろいろが甦った。三角ベースや棒野球だけでなく、釘さしビー玉メンコパチンコ紙鉄砲、足がっこに花いちもんめ、そして縄とびと、よくまあ飽きもせず遊んだと呆れる。今どきの子に昔遊びは無縁のものかとも思うが、爺婆(じじばば)と交わす咄のタネになるのかもしれない。遊びかたの詳細は雲のかなたに漂っているが、思い出す順に紹介してみようではないか。
第1章👉「球はなくても棒で野球遊び」