なぜ、「街路樹」なのか

この記事は、建築資料研究社・刊/龍居庭園研究所・編 「庭 186号(2009年3月発行)・街路樹は微笑む」に「損得よりも誠意で行動する人たち」というタイトルで掲載されたものです。

ウエブサイトの片隅にあった「悲しいケヤキ」と言う記事が私の人生に思いがけない出会いを生み、同時に私自身の大きな学びともなりました。この記事では、そのきっかけからその後の経緯を記しています。

心が動けば行動に出るのが人。そんな人の指針となるのはやはり、『 誠意と誇りで動く人』ではないでしょうか。

2010年11月


テキスト
松本市南部の芳川公園横の歩道に影を落とすトウカエデ並木(2010年11月7日撮影)

森林危機、気象危機、農業危機、食料危機、軍事危機、医療危機、経済危機、金融危機・・・今、世界中で、毎日のように「危機」と言う言葉が叫ばれています。
この言葉が使われ始めたのは、いつだったのでしょう。

「平均的に」豊かな筈だったこの日本で今、少なからぬ大人達が今日の食い扶持すら心配し、多くの子供達は土から離れて遊びます。

大人も子供も他を顧みるゆとりを失い、できるだけ他人とかかわらずに生きていく道を選ぶ。そんな人の苦しみや痛みにすら鈍感になってしまった人たちは、ましてや道の脇で立ち枯れた木々に関心を示すことも、目を向けることもできないでしょう。・・・以前の私が、そうであったように。
そんな私が悲しい街の木々たちに目を向けたきっかけは、ある人と交わした些細な会話からでした。街路樹に対して世間の大多数の人と同じように「道路の付帯物」という認識しか持っていなかった私の考えは変わり、2004年の秋にその経緯を自分のサイトの中のエッセイとして書きました。

それから二年ほど経ったある日、いつものように開いたデスクトップモニタに一通のメールが着信していました。秋田からのその「手紙」は、インターネット文化が浸透してからあまり見られなくなった生真面目で改まった「はじめまして」の自己紹介の挨拶で始まっていました。
その福岡さんからのメールは、私のサイト中のエッセイ「悲しいケヤキ」に触れ「記事に共感して、思わず」メールをしました・・・と書かれていました。

その文面から受けた印象は『一本気で真摯な親方さん』。メールに記されたサイトを見ると、そこには仕事の紹介だけでなく、環境や街路樹への想いが真剣で熱のある口調で語られていました。実際に役所を訪ねて会話をしたり、投稿をして自らの考えを世に問うたりと、福岡さんは発言力も行動力も伴った、『熱い』方でした。
しかし、「共感」と言う言葉をいただいて嬉しく思うのと同時に、独り言のような文章を書いた後は何をするでもなく日常に埋もれていた私は、正直戸惑ってもいました。

そのころの私は、なんとか仕事として絵を受注できる状態になったばかり。仕事がほとんど無い中ただ過ぎていく時間がいたたまれずに、教科書を片手に乏しい内容でサイトを開設し書いたエッセイが「悲しいケヤキ」だったのです。

書いただけで後にも先にも何の行動も伴わない私が、有言実行の人からの真剣な手紙に、どんな言葉を返したら良いのだろう・・・。この時は結局、ありきたりな返信しかできなかったように覚えています。
福岡さんのメールを読みながら、私は富山の新樹造園・河合さんのことを思い浮かべていました。以前からご自身のサイトや現場で街路樹の実情を取り上げ、世論を喚起させようと奮闘されている方で、街路樹の剪定に対する考えや想いはとても通ずるものがあるように思いました。

それから、街路樹を想う同志として、仕事に対する想いも同じ親方さん同士として、河合さんと福岡さんの交流が始まったいきさつは自然な流れだったのでしょう。

そして私にも、二年前の福岡さんからのメールをきっかけにして様々な出会いがありました。
「街路樹仲間」となった福岡さん、河合さんとの交流はもちろん、日本各地の熱意と気概に溢れたたくさんの庭師さん達とお話しする機会にも恵まれました。
「悲しいケヤキ」というひとつの記事は私の思惑も日常も飛び越えたものへと成長し、それはまるで、その記事自体に私自身が引っぱられて行くかのようでした。
そして今日まで、そんな皆さんとインターネットやメールのやりとりを通して、私は仕事場の椅子に座ったまま、街路樹の現状を「受信」し続けたのでした。

そして現在、私の日常は「悲しいケヤキ」を書いた五年前とあまり変わらず、家計の厳しさも世の中の景気と同じ曲線を辿り、育った扶養家族の進学にも頭を痛め、一人親家庭の嘆きを身をもって実感しています。

私自身がそうであるように、人間というものはゆとりがなくなればなくなるほど、ひとつの事に集中せざるを得なくなります。ゆとりや余裕の無さは危機感をあおり、生き抜くための最低限の目的を人間に与えますが、過度の危機感は無気力や無関心、そして未来への期待感の低下や、また過激な暴力主義にもつながるのかもしれません。

けれども、そんな私がこの五年間で得たものは何と多かったことでしょう。様々な出会いは私の考え方でなく、生き方さえも変えたのかもしれません。そして私の眼を開かせ、少なからぬ気力を与えてくれた人達は、今も歯を食い縛って現場で行動しています。

地球規模であらゆるところに急激に押し寄せている「危機の波」は、この瞬間自分の庭に打ち寄せて来ても不思議ではありません。私達がこれまでに、見て見ぬふりを決めこんで来たいろいろなこと・・・それらが積み重なり、今にも崩れ落ちそうになっている。
そして、そんな時だからこそ、私達が過去にしてきた多くの間違いをまっすぐに見つめなおし、やり直すべきなのではないでしょうか。

私達は今、木々が人間にとって無くてはならないものであることを、地球上に残された「自然」が、かけがえの無いものであることを知っています。
そして街路樹は、人間が生活のすぐそばに作り出すことのできる「自然」だと私は考えています。

街路樹を、ただ単なる道路の附帯物でなく「自然」に造りかえることのできる人たち。

損得でなく、誠意で行動する人たち。そして、自らの仕事に誇りを持てる人たち。

そんな人々が街の木々たちの回りに集うことを、私は心から願っています。

テキスト
美しく黄葉したトウカエデ(2010年11月7日撮影)


参考リンク:

新樹造園(富山県南砺市)

福岡造園(秋田県能代市)

街の緑を考える ~ふるさとの緑への提案と活動~

福岡造園ブログ「杜の木漏れ日」:
街の緑4(杜守Club)
街の緑7(緑の啓蒙イベント:剪定講習会・街路樹展示等)


Blog : 悲しいケヤキ index