悲しいケヤキ~「緑陰道路プロジェクト」に想うこと

このエッセイは平成15年に始まった街路樹の剪定方法を問う「緑陰道路プロジェクト」について、平成11年ごろの公共工事の状況を思い出しながら、当時(2004年11月)の私の考えを書いたものです。

現在、街路樹をとりまく状況も変わってきていることや、このページへリンクしてくださっているサイトもあることから、記事の内容を見直し、新たに書き直しました。

2006年7月6日


私(私)「こんちわー、どうもご無沙汰しちゃって…あれ社長なんか冴えない顔色で…呑みすぎ?」

社長(社長A)「いや違うよ、確かに昨日も飲んだけど。なんだい、さっちゃん今日は遊んでるんかい」

私「まあ、そんなとこ。社長だって遊んでるじゃん(現場に出てないと‘遊んでる’と言う)、いやたまたま近くを通ったからさ。」

社長「じゃ、あそこのケヤキ並木見たかい?剪定してあっただろ」

私「あ、ぜんぜん気がつかなかったけど…社長のとこでやったんですか」

社長「バカヤロウ俺はあんな仕事しねえよ。見てねえのかあのひどいケヤキの姿を」

私「そんなにすごいの?」

社長「ふてえ枝のまんなかでぽんぽん落としやがってよう。ひでえもんだよ悲しくなっちまうぜ」

私「でも、なんで?気持ちはわかるけど、けっこう見るじゃん、そういう剪定。」

社長「あそこはなあ前の時は俺がやったんだよ。」

私「あ、なるほど…」

社長「ケヤキの良さってのはなあ、あのすうっとした枝先の形だろ。それを…」

この続きの社長Aさん社長のケヤキに対する思いを語ると、ちょっと長くなるのでこれ以上は書きませんが、日本の街路樹の剪定については素人目にも余るものがあるようで、こんなものができました。

Ⅲ 美しい国づくりのための施策展開/5.緑地保全、緑化推進策の充実「緑陰道路プロジェクト」国土交通省

「枝や葉を切ることでせっかくの景観が台無しになってしまう」という納税者からの批判を受けて、国土交通省が平成15年度からスタートさせた、街路樹の姿と周辺の景観向上のためのプロジェクトです。
剪定を控える(極力剪定をしない)ことで、景観向上の効果や、また管理上の問題点を探る…ということですが、私はなんだかこの話に、たくさんの疑問が湧いてきてしまうのです。

道行く人が見て街路樹の姿が「悪くなった」と思うから批判が出るのでしょうが、そもそも「剪定を控える」ことのできる街路樹であれば、今まで剪定はしなくて済んだはずでは? …と思うのは私だけでしょうか。

私は街路樹には定期的な剪定が必要だと思っています。もちろん「悲しいケヤキ」は勘弁してもらいたいですが…これは「剪定」ではなく、「刈り込み」です。
このケヤキにしてもそうですが、確かに木の特性や良さをまったく無視したどうみても上手くない剪定があちこちで見られるのが現実で、これが本当にプロの造園業者の仕事だろうかと目を疑うこともあります。通りを歩く市民からクレームが来るのも無理はありません。

…けれども、そんな街路樹の剪定をした業者が造園業者だった、とは必ずしも言えません。資格さえ満たせば、土木・建設業者でも、委託業者として剪定工事は請け負うことができるからです。
誤解があるといけないので言い添えますが、あくまでも剪定工事の現場でハサミやノコを持つ職人と現場責任者に見識と技術があればよい仕事ができるはずで、看板で技術が計れるわけではありません。

また、受注した工事を下請けに出す(工事を請け負った請負者が工事のある部分を他の業者に発注する)ことは珍しいことではありませんから、元請が○○建設となっていてもやっぱり現場の作業員は□□造園かもしれません。 …このケヤキがそうだったとしたら悲しいことですが…。

では、街路樹がこのような「悲しいケヤキ」になる理由は、現場の技術的な問題だけなのでしょうか。
私は、それよりももっと重い、更にやりきれない「理由」が、そんなケヤキの姿に隠れていると思っています。

木の剪定に話を戻しましょう。
健全に育っている木の枝葉が、一年でどれだけたくさん伸び、茂るのかを想像してみてください。
‘山にあって自然に衰退を繰り返す木’ではない街路樹の剪定を控えることが、色々な意味でどれだけ良くないことか…(剪定を怠ったため事故が起き、運送会社が街路樹を管理する市側を訴えた…といった事件もありました)。

「緑陰道路プロジェクト」のきっかけの一つとなった「『木や葉を切った(剪定をした)』から木の姿が悪くなり景観がだいなしになった」という市民の声に対して行政が出した、「では、切らなければ(剪定をしなければ)よい。」という結論は、あまりにも短絡的に思えます。
そこに、実際に街路樹に係わる人々との「会話」があったのでしょうか?
その声の原因となった街路樹を実際に見て、原因と対策を真剣に考えて立ち上げたプロジェクトであれば良いのですが、木を見上げたこともない一部のお役人たちが、現場も見ず、現場作業者と会話もせず、管理責任者(発注者)に責任を問うこともせず、部屋の中だけで決めてしまったのではないでしょうか?

また、ひとくちに「剪定」と言ってもその木の環境や状態によって様々な方法があります。街路樹が植えられた環境によっては10年先を見越した「強剪定」も時には必要でしょう。…それにしても、長く木にかかわり、その土地々の様々な木に触れてきた、いわば木の専門である造園業者が、納税者に対してそういったことをきちんと説明する機会はないのでしょうか?

では、木の姿を維持しつつ美しい剪定をするにはどうしたらいいのでしょう。
埃をかぶった私の教科書「一級造園施工管理技師 受験100(1997年版 山海堂)」を本棚の奥から引っ張り出して見てみました。

「第31構 樹木管理-2」の「2.剪定の方法(街路樹冬季剪定)」のところに、
「ケヤキなど分枝型の木の剪定の基本は枝抜き、切返しなどとする…(略)…ことに分枝型樹形の樹種では枝抜き剪定でないと萌芽の状況が悪く樹形を乱すおそれがある。」…とあります。
さらに読んでいくと 「切返し剪定…自然形の場合、枝が伸び過ぎて樹冠の外に飛び出しているもの、または樹冠が大きくなり過ぎて、小さくしたい場合などにそれぞれの枝の分かれ目を選び、長いほうの枝を付け根から切り取ることをいう。また、太枝、古枝を切り戻さなければならないときも、小枝もしくは新生枝の発生している所を見つけて、その真上で太枝のほうを切り取る。…(略)…剪定上の注意…街路樹のように列植されて整然とした樹形を要求れるものは、同型・同大に揃うように剪定しなければならない…(略)…次にぶつ切りをしないように注意する。ぶつ切り箇所から出る不定芽は樹形を乱し、剪定がしにくくなり著しいマイナスとなる。」

どうして教科書というものはどれもこう、堅苦しいんでしょう(笑)。太字は私が強調したわけではなく、教科書でその部分が太字になっていたのでそのまま引用しました。

「分枝型」とはケヤキやサクラのように太い幹から何本かの主になる枝が分かれる樹種で、それに対してイチョウ、モミジバフウなど根元から先端まで幹が一本まっすぐに伸び、枝は幹の周りにらせん状に出る「直幹型」の樹種があります。
分枝型のケヤキは教科書にあるように、枝を透いてゆく(枝の付け根から抜くように切って行く)剪定方法を取りますが、この枝の付け根の部分は木が大きくなるにつれて、上へ上がって行きます。すると、どう透いても、一度大きくなった木を低く剪定するには主になる太い枝を切るしか方法がなくなります。
太い枝には枝葉も沢山茂っていますから、何年も放置した街路樹に対して仮に枝を抜く(透く)剪定ができたとしても、木は剪定前に比べてはげたようになって見えます。

また、大人の胴や腕ほどの太さの枝を切り詰められてしまった木は、すぐには元の自然な姿に戻ることはできません。目立たなくなったねえ、などと言われるには10年、いえそれ以上かかるかもしれません。
しかし「大きくできない場所」で大きくなってしまった木であれば、10年先の枝の更新を見越した強剪定もいたし方無いでしょう。

また、木は当然の生理現象として高く、大きくなろうとしますから、本来20~30メートルにもなる高木であるケヤキ特有の、ほうきを逆さにしたような形を維持しつつ高さを抑えてゆくということにもある程度、限界があります。
だからこそ、それぞれの木の生理と特性をわきまえ、翌年、数年先、10年先20年先の木の姿を想像しながら行う、定期的な剪定が街路樹には必要なのではないでしょうか。
一本の木の寿命は、一人の人間よりもずっと長いということも忘れてはならないと思います。

「現場」を歩かない「行政」が主導する今の街路樹の管理方法が、「悲しいケヤキ」を生む本当の理由ではないか、と私は思っています。
あの厚い「設計書」のなかに細かく書き込まれた項目と数字…その「項目」の仕事を総て完了させて「数字」さえあっていれば確かに工事は完了なのでしょうが、管理者である行政は生きている「街路樹」にさえもそれを当てはめようとしているのでしょうか…。
公共工事の手抜きや仕事のやり残しを避けるためのシステムのはずの、業者が作らねばならない膨大な量の書類や、撮らねばならない何十枚もの写真はいったい何のためのものなのでしょうか。
木一本の価値や、そこにある意義よりも書類上(数字上)問題が無ければ「良し」とする公共工事の矛盾を、悲しいケヤキの姿に見るような気がします。

また、環境問題で行政は緑化事業に力を入れている筈(フリ?)なのに、公共工事削減の例に漏れず、街路樹にかける「予算」が厳しい、という現実もあります。(個人的には、山を切り開いて芝を植えた公園を作る予算があるのならそれを街の木々にまわして欲しいものだと思っています)
もともと、作業条件が厳しい幹線道路は人や車の交通整理も必要ですし、危険を伴う高所作業でもあります。人も車も通る場所ですから切り離した枝をほいほいと落とすわけにも行かず…そんな場所に植えられた街路樹一本にかかる経費は想像に固くありません。もしも、その予算を切り詰められたなら…しかもそれが下請け、孫請け工事だったとしたら…。

木の姿を見定めながら行う、手間のかかる透かし・枝抜き剪定よりも、枝をいっせいに筒切りし小枝を刈り払ったほうが確かに「効率」は良い。
そして昨今ますます厳しい公共工事の予算組みを誰もが肌で感じているから、そういった現状を憂慮している良心のある業者でさえ、どんどん寡黙になってゆきます。良い、悪いと一言では言えないやりきれない現実が、ここにもあります。
太い枝を「ぶつ切り」されたケヤキの姿から、街路樹をとりまくそんな「悲しい」現実が見えてくるようです。

街路樹に使える予算や周辺住民のクレームなど、お役所にもいろいろと都合があるとしても、建物や電線の都合で木の高さを定めなければならず、また道路や歩道の広さによって枝張りも抑えなければならないような場所に適さない木を植栽して、予算が無いのを理由に定期的な維持管理(要するに剪定)もせずに、大きくなったから小さくしてくれと言うのには無理があるのでは…、と思います。

さらにいえば、回りに遮るもののない場所のせいぜい4、5メートルの高さの街路樹でさえ、「悲しいケヤキ」になっているのはいったい、どうしたことなのでしょうか…。

この「緑陰道路プロジェクト」。本末転倒にならなければいいのですが…。

テキスト

テキスト

松本市美術館のケヤキ(2017年の冬2月と、2016年の春5月の状態)。
ケヤキは本来、成長するにしたがって枝葉を張り出させて大きな樹幹を形成します。このケヤキは街路樹ではありませんが、歩道の近くに植えられているため道行く人たちの目を楽しませ、ケヤキのボリュームのある緑がまるで森のような景観を市街地に創り出しています。


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