渓流のアマゴを食べる
2007.04.09 Monday
 釣り人仲間に声をかけられ地域おこしイベントの実行委員会に名前を連ねてしまった私、ふだんから余裕のない日々なのに遠出がかさなりますますケチケチになった食生活なんである。

 そこで釣ってはリリースの仲間の一人に
「わが家のオカズにしたいのでリリースしないで私に二匹だけ持ってきてください。」
 とお願いしておいたら、イワナとアマゴと計4匹、持ってきてくれた。今晩のたんぱく質はコレに決定!
 やっぱり新鮮な魚は塩焼きだよね。養殖モノと川を泳いでいた魚の味は全然違うんだよ。

 さて、環境・資源の保護が叫ばれている昨今、渓流釣り人もバッシングに会うことが多いようで、しかもお持ち帰り派とオールリリース派で同じ釣り人同士が対立(?)することもあるようだ。
  まあ今時、どうしても川の魚を食べないと飢えてしまうわけではないし、レジャーとしての釣りを考えると確かにオールリリースは一理あるかもしれないが、私個人は釣ったら食べるほうが自然に思う。
 ・・・むろん、手が後に回るのは嫌だから、河川管理上(長野県の場合だから15cm以下リリース)の規則に従っての上で。
 ただ、16センチを持ち帰るのと、15センチを放すのとの間にはどれだけ開きがあるんだろう、そうすると17センチも18センチも・・・となってくるので、せめて20センチ以上が持ち帰っても良さそうな私的「良識の範囲」サイズのような気がする。

 また、お持ち帰り派の中には、漁業調整規則なんてものともせずに、いたいけな稚魚から何から「根こそぎ」お持ち帰りする人がいるんだそうだ。
 持ち帰る魚の数にも「良識の範囲」と言うのがよく使われる言葉だが、人によってその立場によって千差万別だ。
 決まったルール(今は持ち帰りの本数に制限がないから、漁業券の保持と全長制限、キャッチ・&リリース区間制限くらいのよう)があっても地元漁協にしてみれば、魚券を持っていれば「お客さん」である釣り人に対する取り締まりは難しい。
 それに「根こそぎ」の釣りをする人にいくら「良識の範囲」と言った所で宇宙語にしか聞こえないだろう。
 
 限りのある食料であって、それを食べつくすことがいずれその種の自滅の道であっても、個体として生きるために食べなければならない生物達。
 たとえばそんな、鹿の脳みそより確実なシワが多いはずの人間が、レジャーでも職業(今や川猟師は殆どいなくなったそうだ、少なくとも登録している範囲では)としても、どうしても食べなければならないものでない魚を、獲り尽くしてしまうのはどういう訳だろうか。

 道具を持ち、領地を争い、取引をし・・・それが人間の歴史だ。
 脳を大きく育てた人間の進化は、なんのためだったのだろうか?
 生き延びるために進化するのか、たまたましてしまった進化がその種を生き延びさせてきたのか・・・
 偶然か必然かは、また解明されていない自然界の進化の不思議だ。

 今の人間がしていることを必然の進化の過程だとするなら、破壊や搾取が氾濫する今の環境も「自然の理」なのだろうか。
 人間の知恵は、何のためにあるのだろう。

 環境の保全を突き詰めて考えたら、長い目で見てその場所に人間がいっさい立ち入らない、そして手を加えないのが一番、私はそう思っている。

 そうすればすべてのものは時間の流れにさからわず、あるがままに、変化してゆくだろう。
じねんのことはり
じねんのことはりTOP